志戸坂峠ってどうなっとん? 〜広報にしあわくら 2024年9月号より〜

この記事の最後にPDF版のリンクをご紹介していますので、是非ご覧ください。

解説!村のあれって どうなっとん?

西粟倉の「今」を紐解く

今月のテーマ 志戸坂峠ってどうなっとん?

はじめに

令和6年6月24日、国の史跡として、「智頭往来 志戸坂峠(ちづおうらいしとさかとうげ)」が、村内ではじめて選ばれました(正式な決定は秋ごろになります) 。国の史跡は岡山県内では48番目となりますが、岡山市の造山古墳、倉敷の楯築古墳などと並んで、国の中で価値が高いと認められた貴重なものです。

今回の特集では、この志戸坂峠を取り上げます。志戸坂峠には、村内の歴史がわかるスポットが点在しいて、村内の歴史が凝縮されています。左記に志戸坂峠の地図を作成しました。
この広報誌を見ながら、志戸坂峠を歩いてみませんか。

もっと歴史を詳しく知りたい方は、図書館の方に資料などがございますのでご覧ください。

志戸坂峠ってなに?

志戸坂峠は、鳥取県と岡山県を結ぶ智頭往来(因幡街道)の道筋にあり、江戸時代には参勤交代に利用されるなど昔の人びとにとって重要な道でした。

志戸坂峠の歴史は古く、8世紀に書かれた『播磨国風土記』には山陰地方の人々が中国山地山越えルートとして使われたと記述がありました。

近世に入ると、池田光仲 (池田光政の従兄弟)を初代とする、鳥取藩池田家が参勤交代の道として発展させました。240年間で138回、幕末期には1172名の行列で峠を超えました。
このように、志戸坂峠は、京都や東京などを目指す重要な道であったことがわかります。なお智頭町にある「駒帰の泣き地蔵」は、故郷から離れる悲しみを表現した地蔵だと言われています。

近代では、明治18年に、国道22号に指定されました。今、私たちが見ることのできる姿はその際に整備されたものであることが明らかとなりましたが、明治政府が国家戦略として打ち出した国道整備が中国山地においても早期に完徹されていたことを示す貴重なものだとわかってきました。その後は、自動車の普及により交通量が増加し、昭和9年には、 「旧志戸坂トンネル」が完成し、志戸坂峠は大きく変貌を遂げました。

現在、志戸坂峠は鳥取自動車道の完成により交通の要所としての役目は終わりましたが、そのことによって江戸〜明治時代の姿が保存されることになり村内の歴史を後世に伝える場所として残り続けることとなりました。

「駒帰の泣き地蔵(智頭町)」元々は村内にありましたが、現在は智頭町側の旧志戸坂トンネルの手前にあります。
志戸坂マップ
「 開鑿碑(かいさくひ) 」について

この石碑は、明治20年6月に開削工事が成功したことを記念にして建てられた石碑です。明治18年1月に智頭往来志戸坂峠が国道22号に指定されたのち、これを受けて岡山県が峠の開削工事に取り組むことになりました。石碑にはこのように書かれています。明治18年11月に志戸坂峠の水害や雪による事故などを憂いた当時の岡山県知事が工事を命令して行われました。当時厳冬期には、大雪により雪崩が起き、他の村々からは、捜索や人命救助のため、多くの人員が派遣されました。しかし、この工事によって、水害や大雪が降っても道をふさぐことはなくなり、道が改善したようです。

開鑿碑(かいさくひ)
「 茶屋あと 」について

志戸坂峠には、茶屋があったと言われています。この茶屋は、参勤交代や国道で利用されていた際に峠の茶屋として利用されました。現在、建物自体は残っていませんが、発掘調査したところ下記の写真のように茶屋の痕跡が残っています。他にも茶屋あとを発掘した際、 『肥前系磁器』が出土したことからも茶屋があったことがわかります。村内で、当時の志戸坂峠や茶屋あとを知る人物として、坂根の檀原重男さん(大正14年生まれ)にインタビューを行いました。檀原さんの子ども時代は、坂根は宿場町として栄え、旅館や呉服店など立ち並んでいたそうです。また、開鑿碑(かいさくひ)には檀原重蔵さんという方の名前が記述されています。この方は、曾祖父にあたる方だそうです。

出土遺物「肥前系磁器」
檀原重男さん

昔、 坂根は宿場町で旅館や呉服店などがあり、家の周りには様々な店が立ち並び栄えていました。当時、村には木炭産業があり、そこで働く人たちが泊まったりしていました。当時の志戸坂峠については、親戚の家が鳥取にあり、峠を歩いて行ったことがあります。また、峠のお茶屋さんがありました。そのお茶屋さんには、志戸坂饅頭というあんこが入った小さい和菓子が売られていました。

「石垣」

志戸坂峠には明治18〜20年の道路の建設に伴って築かれた多くの石垣が点在しております。積まれた石については、使える石材を探して村内外から運ばれてきたようです。

左記の写真からわかるように、石垣には色や形の違いがありますが、村が令和3〜5年で行った総合調査で、明治の道路建設時に一緒に積まれたことが判明しました。限られた石材を場所の特性に応じて使い分けていたことがうかがえます。近年では、平成30年の豪雨などで一部が崩れましたが、村が国や県の協力を得て復旧しました。

今後の志戸坂峠について

今回、国の史跡として追加された指定地は、すでに指定地となっている智頭町側と隣接された部分であり、智頭町と西粟倉村が一体となって保護・活用していくことを考えております。また平成30年豪雨災害により崩れた箇所を復旧したものの、通行しにくい箇所や石垣が崩れかけている箇所があります。

村ではこれらの課題を整理し、村民のご理解とご協力をいただいて、この大切な史跡の価値を保存・継承していきたいと考えております。これまで知る人ぞ知る存在であった志戸坂峠の価値が専門家によって認定されることになりましたので、この機会に、たくさんの方に訪れて欲しいと思っています。

教育委員会

次回の広報にしあわくら10月号から2月号まで、志戸坂峠の価値付けや調査研究に関わっていただいた専門家が寄稿した連載を開始します。
また11月にはこの専門家方々と一緒に志戸坂峠を登ったり、価値を学べたりするイベントの企画を予定しております。お楽しみください。

〇スケージュール

10月号 調査、道路構造について
11月号 古代
12月号 中世
1月号 近代、石碑について
2月号 智頭町の現状や取り組み

広報にしあわくら9月号全文は以下でご覧ください。

広報にしあわくら2024

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